こんにちは。鈴木努です。
歯の治療を続けてきましたが、ついに先生から
「次は2ヶ月後に。定期検診で」
とのお言葉。
ついに治療が終わって、「よっしゃー!!」
みたいなこの気持ち、どうぶつの森の悪徳銭ゲバタヌキ(たぬきち)から勝手に背負わされた借金を返済したときの気持ちに似ているなと思います。
今日は、実況したレースの距離を足していって、世界一周を目指す記事です。
毎回書いていることになりますが、ちょっと果てしない旅すぎるので、
ここまで進みました!ということを書いたらあとは雑記にしています。好きに書いてます。
基本どの記事も好きに書いていますが。
そんなわけで、8月の実況したレースの数は、115R
距離は156.65kmとなりました。
多分今年一のスコアなんじゃなんじゃないかな?と思います。
8月は本当によく働いたよ…。
この喋ったレース数とか距離を勘定する際に、自分の実況を聞くわけですが、こんなレース喋ったかな?と記憶が曖昧だったりすることも先月に関しては多く。
そんな感じで、ざっくばらんに書いていこうかなというところですが、今月は話題という話題がないといいますか、本来であればこの記事で結婚したことについて書こうかなと思っていました。
どうしようかな~と思っている間にスケジュール的にもなかなか余裕がなくなってしまい、書こうと思った際には立て続けに競馬場で痛ましい事故なども起こり、なかなか気持ちがこちらに向かず。
9月も終わろうとしている最中、8月号を書くことになるとは…って感じです。
このブログは仕事ではありませんし、普段から好きなことを自由に書いているので、焦る必要性なんて全くないんですが、なにかこう焦燥感に苛まれるような気持ちにもなり。
そんな中で今月は「好きなことを仕事にすることについて」というテーマにしようと思っていたところ、私が敬愛している小堺翔太プロがほぼおんなじことをテーマにブログを書かれていたので感じましたね。シンパシーを。
なので、私は「人間性と評価」というテーマに書いていこうかなと思います。
ほとんど競馬場と家の間でしか社会活動を行わない私ですが、そんな限られた社会生活の中でも本当に様々な境遇の方、立場の方がいらっしゃるなと日々感じています。
時に、
なんだかな…
そんなこと言われても…
それは違えだろ…
ひどいなあ…
わがままだな…
主張が強すぎる…
心あるんか…
まあこんな感じでざっと書いてみましたが、ギュッとまとめて人間性を疑いたくなる!
という人が皆さんの戦っている社会にも存在するのではないでしょうか。
好きを仕事にさせてもらっていても、こういう方が身の回りにいると足並みは乱され、好きな仕事が時にそうでなくなりそうな瞬間というのは割と頻繁に訪れます。
マジかと思う人に対しては、当然ながらネガティブな印象を抱きますが、その人の「人間性」とは、仕事場で見せるその一面だけで決められるものでしょうか。
どんなに我々にとって悪人、エネミーに映ったとしても、その人は守るべきものの為に働き、戦いを続けている人間。
家に帰れば、家族サービスを欠かさない偉大な人の親だったりするかもしれません。
逆もしかりで、我々にとっては聖人に見えても、一つ川を挟んだ向こう側では極悪人として名が知られ、罪を犯しているようなことだってきっとあります。
ちょっと大げさな表現だったかもしれませんが…
それにしても人は何につけても「好き」とか「嫌い」をはっきり区別させたがりな気がします。
そして、この好き嫌いの評価基準は結構曖昧で、本質を精査されないことが多いのではないでしょうか。
言ってしまえば「なんとなく」好きなものは好き。嫌いなものは嫌い。
好き嫌いに「なんとなく」を挿し込むことがいかに合理的ではないと分かっていても、人は印象やイメージに強く左右されて、なんとなくで好き嫌いをしてしまう傾向にあると思います。
その傾向が現れる理由としては、この白黒をなんとなくでもはっきりさせておいた方が生きることを楽にさせるというか、簡単に書くとモヤらなくて済むからではないでしょうか。
「私に見せるその一面だけで人間性は判断できない…もっと多面的にその人のことを考えて…もっと理解しようとして…」
そんな感じで人のことを考えていると、モヤモヤしてすごく疲れてしまうじゃないですか。
人が人の考察をするのは、精神力が求められ、時に心の負担になるものです。
また「なんとなく」は、案外バカにできないものです。
モノによっては経験を積むことで嗅覚として発達し幸運を呼び寄せたり、稀ながらもこの「なんとなく」の部分に“神”が宿っていたりすることもあります。
皆さんも、なんとなくの選択が思わぬ幸運を呼び寄せたなんてことは、何度か経験されたことがあると思います。
若干話が逸れつつあるので戻しますが、人が人に向ける評価は正確であることの方が少ないのではないでしょうか。もう声が大きいもの勝ちみたいな。
評価基準も極めてブレブレ。それにつられて俺はメンブレ(いいライムだ)ってこともありますよね。
人から受ける評価については、数字や目に見えるものでなければ、この「なんとなく」の海を漂うことになるので、ある程度運が絡むものだと考えながら生きていくことが現状正解かなと。
その中で私自身は経験から得た嗅覚的な「なんとなく」は心に残しつつも、評価や決断を下す際には「なんとなく」に頼らず、自分の考えや主張をまとめた上で突き進めるクソジジイになっていきたいなと思います。
また評価というのは、自分が対象ではなくとも思うところがある時が存在しますよね。
AがBを評価するのを見て、
Bはなんか実力以上に世間から評価されてないか?
AはBに対してなんとなくの高評価なんじゃないか?
この「自分の中では過大評価に感じてしまう瞬間」というのはスッキリしないものです。
これに関しては
なんとなく実力以上に評価されている人は、
なんとなく実力以上に評価されるという実力がある
ということが言えるかもしれません。
そんな時は悔しいなとか、みんなあの人の本性知らないだけなんだよ、面白くない。妬ましい。
という感情が自然発生的に湧き起こります。
そしてそんな自分ってなんて器が小さい人間なんだ…と自己嫌悪に陥ることもあると思います。
器の大小を論ずる際には、まず相手があって、その相手に対して「許す」であったり「認める」という感情にベクトルがガン振りされていると思うんですが、それは言葉にするのは簡単でも実践するのは難しいものです。
まずは人に対してネガティブな感情を抱いてしまう自分を許し、認めてあげることが器拡大と自己嫌悪解消への第一歩なのではないでしょうか。
そんなことを書いている私は自分のことが許せなかったり、認められないことがしょっちゅうなんですけどね。
すみません。FF10のワッカみたいなこと言って。
人の器論争になるとやたら「人を許せるやつ」とか「人を認められるやつ」が大器として扱われがちで、やっぱりそういう人ほど自分にも寛容というか、変なプライドみたいなものがないからこそ、人のことも素直に受け入れられるのかもしれませんね。
今日の記事をまとめていきます。
以前、妻がイルミネーションを見て
「ワー!キレイだね〜」
と隣で言っているのを見た時に
「この人はイルミネーションをなんとなく過大評価しているな」
と思いました。
…。
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